Last Update:00/11/05
 
 

土佐人の明確さ

「未公開講演録愛蔵版5 司馬遼太郎が語る日本」週刊朝日より


先ほど市長さんにお話を伺っていたのですが、ちょうど控室の裏が保育所だそうですね。高知県は保育所が非常に発達していて、安芸市にもいくつかあると伺いました。もっとも、幼稚園は少ないそうですね。幼稚園が少ないのが、高知県の一つのマイナスの特徴だというお話も員の方から伺いましたが、聞いているうちになんだか高知県人になったような気分になってきました。もっとも、私は皆さんと同じですね。ずいぶん以前に、高知県名誉県民ということにしていただきました。ですから、高知県の人が何かいいことをすると自分もうれしい、そんな気持ちが非常に強いわけであります。なぜ高知県に関心を持ったかということからお話ししようと思います。

高知県は、江戸時代の終わりごろには非常に進んだ政治をしていたところでした。高知県の人は、他の藩といいますか他の地方の人よりも頭が進んでいたようですね。ですから、幕末から明治にかけての混乱を、高知県の人が中心になって収拾することができた。あのままでいきますと、やはり日本にもベトナム戦争のような大乱が起きていたと思います。

戊辰戦争の前に薩長連合という一つの大きな目的を遂げることができたのも、江戸を平和に開くことができたのも、ぽぽ高知県人の活躍によるものだといえそうです。まあ、一人や二人の力でなくて、結局、日本人の賢さということになると思いますが、それにしても高知県人は活躍しました。

例えば坂本竜馬が薩長は一緒にならなけれぱいけないと主張した。薩長が一緒になれば新しい時代がくるということは、だれでも思うことですが、それを言いだす人間に魅力がなければ、人は言うことを聞きません。

坂本竜馬が言ったからうまくいき、その後も土佐藩が薩摩と長州という、二 つの勢力のまとめ役になった、こういうふうに、非常に物事を広く見ることができる風土が土佐にあったと思うのです。


土佐弁が生んだ優秀な文化

過去形にして話しますと、今はないということになりかねないのですが、ともかくも、昔はあったわけです。例えば、安芸市の出身の岩崎弥太郎という男は、非常に魅力的な人物でした。こういう中央から離れた土地に生まれ、ここで勉強した。わずかに長崎に行ったのが、他の土地に行った最初です。いや、その前に人に連れられて江戸に一度行ったことがあります。

当時の江戸見物といえば、大名行列が一つのポイントだったようです。江戸城に大名が登城してくる、城の近くの道路わきに控えていると、次から次へと大名が行列を組んで登城してくる。それを見物するのを楽しみにする人が多かったのですが、岩崎弥太郎もそのように見物した。そして、そばにいた同じ土佐の者にこう言ったそうですね。「こういうぱかなことをしているから、大名というものは全部ばかなんだ。この愚劣さを見ろ」安芸の田舎からポッと江戸に出てきたら、目がくらんで圧倒されるはずですね。しかも江戸時代の権威の象徴であるところの大名、その権威のデモンストレーションであるところの行列を見た。ところが、それを見て少しも動じなかったという見識といいますか、精神といいますか、そういうものを土佐人はかつて持っていた。こういうことがなぜできたか、非常に不思議ですね。土佐人は特異な存在でした。

いかに特異かといいますと、江戸時代の初めにロンドンでできたアジアの地図があります。日本列島も、今のような形ではありませんけれども、まがりなりにも似たような形にかかれています。四国も似たような形にかかれておりますが、四国の地名は土佐となっています。つまり、土佐だけが四国で有名だったわけですね、ポルトガル人やスペイン人がかつてこのへんまで来てかいた日本地図の原型がいろいろあり、それをロンドンの印刷屋が参考にして刷ったものでしよう。ポルトガル人スペイン人土佐という不思議な土地柄に注目して、土佐しか目に入らなかったのでしようね。

明治になりまして、文章のうまい人がたくさん出た土地でもあります。先ほどの坂本竜馬がお姉さんの乙女姉さんに出した手紙が一冊の本になっています。大正時代に『坂本竜馬関係文書」として出ていますが、実に名文であります。 名文といっても、型の決まった名文ではありません。普通の話し言葉のようにお姉さんに書いています。それはなかなか書けるものではありませんね。

型の決まった文章というものは、式典の挨拶と同じです。聞いても聞かなくてもいいようなもので、ひとつの型を覚えれぱできます。ところが、自分のの考え方や思想を、あるいは感情を言い表すときに、自分だけの言葉で書く、あるいは話すのは難しいですね。おなかの中にある内臓を取り出すようなものです。大変な才能、人間の力といいますか、人間力が必要になる。坂本竜馬はその意味でまさに名文家でした。

坂本竜馬と一緒に仕事をした中岡慎太郎は、全くタイプの違う人ですね。型の決まった文章の実にうまい人でした。幕末に中岡慎太郎が残した論文があるのですが、火の出るような論文でした。坂本竜馬は戦争を回避しようとし、中岡慎太郎は幕府を倒すには戦争を恐れてはいけないと書いた。型の決まった文章ではありますが、大変な迫力を持った論文です。ここまでくれば、これもまた実に名文です。

明治になりますと、馬場辰猪植木枝盛大町桂月と、もう数えきれないですね。明治の末になると、科学者で夏目漱石が非常にかわいがった寺田寅彦が現れます。瀬石が熊本の第五高等学校で教えた生徒ですが、それが東京大学にやってきて、漱石の家に出入りした。弟子なのですが、漱石は寺田寅彦にだけは敬語を使っていたそうです。弟子ながら、非常に尊敬したのですね、寺田寅彦は科学者で随筆を書いた最初の人だと思います。実にいい文章を残しています。

これはどういうことなのでしょうか。土佐人の持っているどういう能力がこ れらの文化を生んだのでしょうか。おそらく土佐弁そのものにもとがあると、私は思ったりするのです。

土佐弁は非常に明晰な言葉ですね。皆さんが平素しゃべっておられる土佐弁には、行くのか行かないのか、よくわからんというような、そういうあいまいな言葉はないでしょう、ほとんどありません。赤か白かというように明晰であります。

言語、そして思想というものは明晰でなけれぱなりません。そうでなけれぱ自分も誤るし、人も誤らせることになる。フランス人はよく言います。「フランス語は明晰でなければならない」私はフランス語は習ったことはないのですが、明晰のことをクラリテと言うそうですな。明晰さこそがフランス語である。 日本語の中では、土佐弁がいちばん明晰さを持っているなと思ったことがあります。


はっきりしろと 山下奉文は迫った

第二次世界大戦のとき、シンガポールが陥落しました、英国の将軍はパーシバルという中将でしたが、彼が山下奉文という日本側の将軍と会見した。パーシバルは降伏するのかしないのか態度をはっきりさせなかった。対する山下奉文は土佐の人であります。「降伏するのかしないのか、イエスかノーか、はっきりしろ」こう迫ったのですが、それが新聞に出まして、当時は評判が悪かった。

明治のときの日露戦争で、乃木希典は旅順の司令官だったステッセルと会見しています。このときステッセルに対して、武士道をもって遇した。.それに比べて、イエスかノーかと迫るのは武士の情けを知らないではないかと、そういう意味の新聞の批評が出ていました。子供のときに読んでいて覚えていますが、それは間違った見方ですね。山下奉文は土佐人であり、イエスかノーかはっきりしろと言った。この局面においては、山下奉文のほうが正しいのです。

言語というものは、そもそもイエスかノーかをはっきりさせるものです。あいまいなことをごじゃごじゃと言うべきものでは本来ありません。しかも戦のさなかのことです、シンガポールの司令官であるパーシパル中将がやってきて、降伏するのかしないのか、くじゃぐじゃと言うのは本来おかしい。おまけに、山下奉文には事情がありました。実を言うと、イエスかノーかをはっきりさせなけれぱ、自分のほうの兵力が尽きようとしているわけですから、そういうふうに言わなけれぱいけなかった。

それにしても、イエスかノーか、はっきりしろと、直裁に言えるのは、いかにも土佐人ですね。あいまいな、よくわからない日本語を使う地方のほうが多いのですが、土佐弁は自然にクラリテを持っている。そうい土地だからこそ、幕末から明治にかけて、非常にすぐれた文章家が出たと思うのです。

普通のおしゃべり言葉についての余談なのですが、戊辰戦争が終わってまもなくの話になります。土佐にとって敵方であった会津、今の福島県ですが、福島県も非常に言葉がわかりにくい、方言の強いところであります。いまの福島の人はもちろん違いますが、当時の人は牛乳という言葉を発音するのに苦労したようですね。「ギイニュウ」と言う人が多かったと聞いています。これは余談ですが、日本人が「ギュウニュウ」と言えるようになったのは、奈良朝ぐらいからだそうですね。中国語の影響のようでして、ところが、白河の関を向こうに越えますと、奈良朝以後の新しい発音が入らずじまいだったんですな。ですから、「ギイニュウ」と言っているわけで、それを教えにだれかが行かなければならない。どういう理由がはわかりませんが、福島県では、土佐の言葉がいちばん正しい日本語だそうだということになったようです。土佐の人を小学校の先生に招きたいということになり、五、六人が招かれた。お嫁さんをもらって土地に土着したはずです。土佐の言葉を福島が習ったという不思議な話ですが、いずれにしても土佐の言語というものは、いろいろな可能性を持っていたようです。

そして、土佐の特徴をもうひとつ言いますと、自由ということを本来持っていた土地ですね。自由民権運動が土佐から起こったことは、皆さんご存じですけれども、この話はその後の話になります。加藤拓川という伊予の松山出身の人がいます。拓川というのは雅号で、加藤恒忠が普通の名前になります。正岡子規の叔父さんにあたる人ですね。

この人は明治の初めに、今の東大法学部の前身であるところの司法省法学校に入学したのですが、薩摩閥の威を借る校長に反抗し、ストライキをして退学になりました。しかし、司法省法学枝はフランス語で授業をしていましたし、退学後もフランス語を学んでいたため、拓川はフランス語がよくできました。旧藩主の従者としてパリヘ行き、その能力を買われてパリの公使館に勤めることになりました。やがてベルギー公使になり、さらに外務次官になるというようなうわさが出始め、そういうものになるのは嫌だと言った。非常に変わった人ですね。外務省をやめてしまい、国に帰った。すると故郷の人々が、松山市長になってくれと頼みにきた、そのとき拓川はすでにがんを患っていました。自分が食道がんであることを知っていましたから、「自分はがんだからなれない」と言ったのですが、いや、名前だけでもいいからなってくれと頼まれた。結局、松山市長で死んだ人です。

この加藤恒忠、拓川という人は、フランス語を学ぶ過程で、ルソーの「民約論」の影響を受けたというか、ルソーを敬慕していたのですね。「人間は生まれついて自由であり、生まれついて人権がある」ということを非常に頭にたたき込まれた人であります。


土佐人は変わり自分がなくなった

ところが、自分の母国の日本はどうかというと、世の流行に従ったり、人のふりを見てまねをしたり、非常に付和雷同する傾向がある。自分というものがないところだと非常に嘆いていたようです。拓川の文章は死後にまとめられましたが、公に印刷されたものではありません。たまたま私はその子孫の方から、その文集、「拓川集」をいただいたのですが、いいことが書いてありました。 「我が国では、我が四国の南の一角を占める土佐だけが自由である。土佐人だけが自然の自由人である」非常に希望を持って書いている。

この加藤恒忠という人を私は尊敬しているのですが、同じ四国人が土佐を褒め ているわけですね。よく土佐を知っている人が褒めているわけであり、非常におもしろい。そしてまた加藤恒忠は、当時のフランス的な教養人としては最高の人でありました。フランスというものを考え、日本というものと比べたとき、土佐がいい、土佐はそういう点で非常に可能性がある、こう思っていた。こういうことがいくつかあって、私は土佐というものに非常に関心を持ちはじめ、もっと知りたいと思ってきたのです。

ところで、私が高知県に来たのは、そんなに古いことではありません。初めて来たのは、いまから二十三、四年前だったと思います。はりまや橋の近所の喫茶店に入りまして、三時間か四時間ほど粘ったことがあります。ガラス越しにちょうど道路が見えるものですから、道行く人をじっと見ていました。座ってガラス越しに見ているというのは楽しいことでして、道を歩いている人は油断して歩いていますからね。土佐の人問とは、どんな顔をしていて、どういう歩き方をして、人格的印象というのはどんなものかと見物したのです。

そのときの記憶は今でも頭の中にありますが、なんともいえず気骨のある感じの人が多かった。あのまま戦国時代の長宗我部元親の時代の長宗我部侍にしても十分通用するというような、そういう印象を受けたのであります。サマセット・モームというイギリスの小説家か言っています。「自分はどこにも行かない。街角でただ一日座っていて、道行く人を見ていれば、それで小説は書ける」まあ、モームに倣ったことになりましょうか。はりまや橋で三時間から四時間ぐらい座っていて、土佐人を見るということから、私の土佐を知ることは始まったわけです。土佐人と話をするよりも、土佐人を一方的に見るということから始まった。

そうして今年の正月を高知で過ごそうと思い立ちました。高知に行きたいという人が四、五人いまして、またはりまや橋に行きました。その喫茶店はもうなくなっていましたが、似たような場所にやはり喫茶店がありまして、そこでもういっぺん座ってみたら、全くつまらなかった。人間というものはこれだけ変わるのか、二十三、四年前に見た土佐人はもういなくなったのかという感じがしました。

眺めていますと、テレビに出てくる歌手のような格好をした女の子、男の子はかりでした。流行といっても、もう行きすぎた流行ですな。そういうものが流行だと思って頭の毛を染めたり、いろいろな格好をしている。要するに、今流の紙切れみたいな若い人が歩いているだけの町になりまして、高知県は変わったなという印象が非常に強かった。

自分というもののはっきりあった、日本では珍しい県であったと思っていたのですが、思い込みでしょうか。これが流行のファッションだと思い込んで、ファッションが歩いているように歩くということは何でしょう。私の考えでは、「私には自分というものはないんだ」という広告をして歩いているのと同じなんですが。

これは、いま日本中がそうですが、日本中がそうであるのは日本人の弱いところであり、土佐人だけはそうではないだろうと思ったら、むしろもう真っ先に土佐人のほうがそうなっていた。二十三、四年前の印象とこれほど違うものかと思ったわけであります。ここから先は、これからの世の中はどうなるかということに話を進めていきたいと思います。

これから世の中がどうなっていくのかを考えますと、今の若い人はうかうかしていられませんね。かってわれわれが経験したことのない世の中に、そろそろ入りつつあります。たとえば植木職人は、十年、二十年と修業を積みます。立派な職業でして、こういう人たちは生きていける。彼らは生き延びることができると思うのですが、そうでない人はどうするのかしらと思ったりします。

昭和二十三年ごろだったと思いますが、京都の烏丸通を歩いていて、十ほども年上の友人と、こんな会話を交わしたことを覚えています。「われわれが生きている問に、変な時代が来るんだ」「どういう時代が来るんだ」「生産をしている人はほんのわずかで、あとは遊んでいる人の時代が来る」その友人は労働組合運動を一所懸命にやっていた、マルクス・ボーイでもありました。そのとき、私はこうも言いました。「資本論には労働価値説とか、いろいろ難しいことが書いてあるけれど、その理論も役に立たなくなる」つまり簡単に言いますと、半導体でノーベル賞をもらったのは江崎玲於奈さんですが、半導体のおかげで、大きかった機械が小さくてもすむようになった。江崎さんだけではなくて、そういう物を考える非常に優秀な頭脳の持ち主だけが生産力を持つ。あとはオートメーションで機械がやりますから、そうすると、おまえはこの世の中に必要ないんだという人間が出てきそうですね。

必要がないと言われても困りますから、結局、バイオリンを弾いたり、ギターを弾いたりして、おもしろい役割を果たす人も出てきます。とりとめもなく一生を送る人も出てきて、しかしお金だけはどこからともなく回ってくる。そういう世の中になるだろうと、その友人には言ったのですが、どうやらそういう時代が来つつあります。さっき言った植木仕事をする人や、農業をしたり、山林を守る人が半数いたとして、あとの半数は、そういうことはしたくない人ですね。遊んで暮らす人も出てきます。女の人には、お嫁にいって子供を産んで育てるといった、いわば永遠の仕事がありますが、男の人の中には、どうやって世の中を過ごせぱいいのか、わからなくなっている人がかなりいるのではないでしょうか。

そういう世の中になりつつあり、しかも若い人には覚悟がないようです。自分が何をするのか覚悟がないうちに、世の中のほうが動いていく。とりとめのない若さを持ったまま、とりとめもなく生きていく。たとえば若い人が車を走らせています。お金は父親からもらったり、あるいはアルバイトをして車の頭金を払い、手に入れる。そのうちにもっと格好のいい車が欲しくなって、またちょっとアルバイトをする。人間は一生、生きていかなくてはならないのですが、そのほんの短い青春の時間を、そうやって浪費します。


少なくなってきた土佐人のスピリット

自動車会社のほうはありがたいですね。もっと格好のいい車に乗りたいと考えている人のために、テレビでコマーシャルを流します、刺激された人が飛びついてきて、自動車会社の生産は増えていく。ですから車の好きな青年たちも、そういう形で生産に参加している。そういえなくもないのですが、たとえば私 がそういう青年のおじいさんだったり、お父さんだったりすれぱ、こうもいい たくなるでしよう。「おまえ、とりとめもなく一生を送るもんじゃないぞ」そういう青年たちが出てくる社会は、かってわれわれが経験した社会ではありません。そして歴史に書かれている社会でもありません。これからの社会は、ほんの少数の優れた人たちだけがつくりあげていく社会になっていく恐れがあるようです。

土佐で誇るべきものは園芸ですね。いろいろな品種改良を、土佐の農民はやってきました。ビニール栽培も、この安芸の周辺で始まったそうですね。昔は和紙に油を引いて囲い、そして栽培をしたと聞きました。昔から頭を使う農業をやってきた土地なんですね。

高知の農業は、日本の農業に強い刺激を与えてきた。いまもそうです。これは土佐人の誇りであります。ですから、そういう土地に、あるいはそういう仕事の家に生まれた青年ならば、自分の一生をそういう方向に進めたいと思う人がもっといてもいいと思うのです。しかし、土佐の青年たちの頭は、そういう具合にはなりませんね。

青山学院に行きたいと言ったりしますな。青山学院大学に行って、何をするつもりなのか、もっと考えなくてはなりません。青山学院に行きさえすれぱ、適当な就職ができるかもしれないと考え、適当に就職できた時代もありましたが、いまは違います。自分の一生を、何をするのかということを考える時代にいよいよなった。明治の寺田寅彦先生や、植物学の牧野富太郎先生のような方が出るのが望ましい。あるいは日本一の園芸家になるとか、林業を守る人になるとか、そういう希望を持つことは非常にいいことだと思うのですが、どうもそういうことをあまり考えない人が多くなったようですね。

四国は四県でできていますが、私などは土佐人だけは別格だと思っているわけです。県外の人もそういう人は多いですよ。みな歴史の知識がありますから、土佐人は偉いと、土佐の人もこう思ってきたのではないですか。「土佐に比べれば、愛媛県とか徳島県とか香川県は、ちょっと精神において下だ」ところが、これは過去形の話になっているようですね。

いまの土佐の若い高校生は、香川県の高校生を恐れるそうですな。入学試験にいくと、香川県の高校生は大学入試にパスするのに、高知県の高校生はパスしない。同じ理由から、愛媛県の高校生を恐れる。土佐の人は昔から、徳島の人をちょっとぱかにしているところがあります。気が小さいとか、こまっしゃくれているとか、ずいぶん言いたいことを言ってきたのですが、その徳島県の高校生は合格するのに、高知県の高校生は落第する。

華やかな歴史を担ってきているのですから、さぞかし青年たちは誇り高いだろうと思っていたのですが、最近はそうでもないと聞きました。やはり土佐人のスピリットが少なくなってきていると感じますね。なぜかよくわからないのですが、それは自信の喪失なのだろうと思います。

たとえば長野県は山また山の県であります。私に旧制中学で数学を教えてくれた人が信州の人でして、この人は高等師範を出た人ではありませんでした。検定で教員免状を取った独学の人だったと記憶しています。昔の長野県の人に聞きますと、大正や昭和の初め、長野県の小学校の先生の多くは、検定で中等教員の免状を持っていたそうですね。中等教員の免状を持ちつつ、小学校の先生を務めていた。それが長野県の普通のあり方だったと聞きました。長野県は教育県だとよくいわれますが、それだけの努力はしてきたわけです。

隣の愛媛県もやはり教育県ですね。昔から教育の行き届いた土地でした。おれと竜馬は違うと土佐の青年は考える私は五、六年前に愛媛県の松野というところで一泊したことがあります。松野は高知県の幡多郡に接した土地でして、ほとんど高知県に入り込んだ、狭い地域です。昔は松丸といっていたところで、今は松野町になっています。そこで町の文化協会長さんとお酒を飲みました。教育委員会や小中学校の校長を務めた人で、ユーモリストでおもしろい人でしたね。こんな話をしてくれました。

「自分は若いときから県境の高知県の教員と共同研究をする機会が多かった。 算数はどうやって教えるかとか、国語はどうだ、図画はどうしたらいいかと専門家同士で話し合うのですが、常に高知県は遅れていた。その遅れも三年や四年の遅れではないのです。あれはどういうわけでしょうか」急に私にそんなことを聞かれても答えようもないのですが、松野というところは四万十川の上流でして、相当な田舎ではあります。文化協会長さんがさらに言いました。ここから向こうは皆さんが腹を立てるかもしれませんが、最後まで聞いてくださいね。

「伊予の、ただの何でもない人が土佐に行ったら村長になった。平教員が土佐に行ったら校長先生になるという話まであります」ちょうどそのとき、町の教育委員会の偉い人が一緒でした。まだ若い人で、非常によくできる人で、その文化協会長さんの教え子でした。今度はその偉い人が肴にされました。「しかし、こうやって自分たちは教育をしてきたけれど、その成果はどうでしょうか。せいぜい伊予の人間は事務局長が務まる程度です。どうして土佐はあの程度の教育なのに、あんなに偉い人間が出るのか、教育とは何ぞやと考え込んでしまいますね。自分たちの教育では坂本竜馬のような人物を出すことができない。この年になって、ようやくそれがわかりました」村長や校長や事務局長は出ても、土佐のように型破りの偉い人はなかなか出せないと、土佐を逆に褒めはじめたのです。

しかし私は喜べませんでした。確かに土佐は偉い人がたくきん出ました。それが高知県人のよりどころだった時代が、ずいぶん長くありました。しかし、これからもそこに誇りを持てるものでしょうか。

今の土佐の高校生にアンケートをしてみれぱわかると思います。坂本竜馬ぐらいは知っているでしょうが、寺田寅彦、大町桂月、馬場辰猪といった人々をずっと挙げていって、このなかから高知県人を当てよといったら、ほとんど当たらないでしょう。つまり、若い人はそんなことに関心を持っていないわけです。私も関心を持っ必要はないと思っています。ある年齢になって、ああ、あの人も高知県人だったのかと知れぱいいことであり、それを誇りに、よりどころにするのは意味がない。

しかし高知の大人たちは、昔はこの県から偉い人が出たんだ、青年よ頑張れ、とよく言いますね。こういうことは意味がない。青年たちに、生れとは違うんだと思われるだけのことですね。だれでも多少のナルシシズムはあるものです。あるけれども、あまりたくさんあってはいけません。自分の県から竜馬のように偉い人が出たということをあまりに思うと、これはナルシシズムになってしまいますね。だからおれも頑張ると若い人は思わないでしょう。竜馬が偉いことと、自分とは関係ないと思う。

青年たちが、たとえば自転車の改良に自分の一生を捧げてくれればいいと思うのです。何かひとつの強いテーマで生きてほしい。いま農業高校や工業高校は、はやらないようですが、それはつまらないことですね。よくできる子が普通高校に行くものですから、自分もできるとつい、普通高校に行ってしまう。


二十一世紀にくる経験してない苦労

農業の品種改良をしたいんだと、そういう気持ちがあれば、進んで農業高校に行けるのですが、なかなかそうはいかない。つまらない時代になりました。そういう少年の時期に、周りの人がちちゃんと「おまえは一生、何をするんだ」 ということを教えておかないと、とりとめのないことになります。そして、この世の中は半分の人が遊んでいるような時代になるだろうと言いましたが、今のような繁栄、今のような豊かさがいつまでも続くとは限りませんね。

豊かさの特徴は、まず何といっても皆さんがご飯を食べられることです。もともと日本人は、なかなかご飯が食べられない社会に生きてきた。二千年前の弥生時代から、いろいろな勢力をしてきました。それがここ二十年ほどは一変しまして、簡単にご飯が食べられるようになった。ラジオ、ミシンに始まり、テレビや自動車、ピアノと、いろいろ便利なものを皆さん持っています。恐ろしいほどの繁栄を遂げたと思うことがあります。欲しいものが何もないぐらいの時代を迎え、それでも日本中のメーカーは、そういう繁栄にある人々に、なお売りつけなくてばならない。

モデルチェンジをして型が変わりましたとか、ここが便利だとか、いろいろな知恵をめぐらせて、新しい需要を刺激し、ようやく買い替えさせている。それぐらい皆、物を持っている。そうすると、これからの産業は今まで以上に売りつける時代を迎えます。それにはセールスが肝心で、遊んでいても仕方ないからセールスをしようという青年も増えてきているようですね。

しかしセールスというのは、若いときにしか、なかなかできないものなので。非常に優れたセールスの才能の持ち主はいますよ。千人に一人といった名人はたしかにいて、こういう人ならば、六十になっても八十になっても、セールスはできる。しかし普通の人はそうはなかなかいきません。若々しい青年がセールスに来るならば、奥さん方もつい油断するかもしれませんが、四十面を下げてセールスをするのはなかなか大変です。若いときと違って、相手を窮屈にしてしまうこともあるかもしれません。今の社会にはごまかしがあるのです。

人間がセールスをするのは本当はつらいことであって、涙がこぽれるようなことがある。大変な労働ではあるのですが、本当の仕事が持つ意味とは少し違うものだと私は思います。いまは飯が食えないけれど、品種改良を土佐の山奥でやっている人がいて、そういう人が十年先におもしろい品種が出て大喜びしたとします。こういう一生の計画の喜びとセールスを比べたらどうでしょうか。 セールスは大変です。しかし売るものは、しょせんメーカーのこしらえたものでしかありません。言葉が悪いかもしれませんが、私はそこにオリジナリティーを感じません。いいか悪いかを言っているわけではないのです。セールスにはそれなりに意義があります。セールスに象徴されるいまの社会、経済について言っています。われわれが思っているような、社会はこうだ、経済はこうだという感覚は、全部通用しなくなった。これからはもっと通用しなくなんだろう、それを言いたいのです。

ですから、学校教育は難しい時代になりますね。学校の先生方も、自分たちの夢の代わりとして、オリジナリティーのある青年たちを育てていかなくてはなりません。「おまえたちは大きくなると大変な時代を迎えることになるぞ。おれたちはおれたちなりの不幸があったけれど、おまえたちはおれたちが経験しなかった苦労をするだろう。そういう時代におまえたちは生きていく」二十一世紀とはそういう時代だと私は思っています。

「精魂こめて自分を建設しろ。ビルを建設するように自分を建設する以外に、 生きていく道はない」

それを高知県の青年たちが持つならば、再び輝ける県になる。いまはちょっと中だるみかなと、そういうふうに思いながら、話してみました。


司馬遼太郎が語る日本 FUSEが心から推薦する一冊です。
是非読んでみてください。

資料として

「未公開講演録愛蔵版5 司馬遼太郎が語る日本」
週刊朝日
定価 820円

 
もどる