Last Update:02/10/06
 
 

「寝ながら学べる構造主義」

第一章 先人はこうして「地ならし」した 3〜5


3 マルクスの地動説的人間観

自分の思考や判断にはいったいどれくらいの客観性があるのだろうか、ということを反省した人は昔からたくさんいました。

世界は自分の目に見えているのと同じように他のすべての人にとっても見えているのだろうか。

自分にとって「自明」であることは、他の人にとっても等しい確実性をもって自明なのだろうか。

このような懐疑は哲学の出発点ですから、プラトンも、デカルトも、カントもみなそのような懐疑からそれぞれの哲学を出発させました。

しかし、この懐疑は、もっぱら、アームチェアに坐って、パイプをくゆらしながら進められる純粋に思弁的なものにとどまっていました。

そのような懐疑が、思索している当の哲学者自身の日常の生き方にじかに反映して、その人の生活を一変させ、その人をとりまく世界を変える、というようなことはあまり起こらなかったのです。

自分の思考や判断はどんな特殊な条件によって成り立たせられているのか、という問いをつきつめ、それを「日常の生き方」にリンクさせる道筋を発見した最初の例は、カール・マルクス(1818〜83)の仕事です。意外に思われるかも知れませんが、構造主義の源流の一つは紛れもなくマルクスなのです。

マルクスは社会集団が歴史的に変動してゆくときの重大なファクターとして、「階級」に着目しました。

マルクスが指摘したのは、人間は「どの階級に属するか」によって、「ものの見え方」が変わってくる、ということです。この帰属階級によって違ってくる「ものの見え方」は「階級意識」と呼ばれます。

ブルジョワとプロレタリアは単に生産手段を持っているか否かという外形的な違いで区別されるだけでなく、その生活のあり方や人間観や世界の見え方そのものを異にしています。

人間の中心に「人間そのもの」−普遍的人間性−というものが宿っているとすれば、それはその人がどんな身分に生まれようと、どんな社会的立場にいようと、男であろうと女であろうと、大人であろうと子どもであろうと、変わることはないはずです。マルクスはそのような伝統的な人間観を退けました。

人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」ではなく、「何ごとをなすか」によって決定される、マルクスはそう考えました。

「何ものであるか」というのは、「存在する」ことに軸足を置いた人間の見方であり、「何ごとをなすか」というのは「行動すること」に軸足を置いた人間の見方である、というふうに言い換えることができるかも知れません。

「存在すること」とは、与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者という立場に甘んじることです。

静止していることは「堕落すること、禽獣となることである」という考え方、これをマルクスはヘーゲルから受け継ぎました。

たいせつなのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。

煎じ詰めれば、ヘーゲルの人間学とはそういうものでした。

(このヘーゲルの人間理解は、マルクス主義から実存主義を経由して構造主義に至るまで、ヨーロッパ思想に一貫して伏流しています。)

「普遍的人間性」というようなものはない。

仮にあったとしても、それは現実の社会関係においては、「現状肯定」「存在すること、行動しないこと」を正当化するイデオロギーとしてしか機能しない。マルクスはそう考えました。

人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何ものであるかを規定し返す。

生産関係の中で「作り出したもの」を媒介にして、人間はおのれの本質を見て取る、というのがマルクスの人間観の基本です。

「動物は単に直接的な肉体的欲求に支配されて生産するだけ」に過ぎませんが、人間は食べたり飲んだり眠ったりという直接的な生理的欲求を超えて、狩猟し、採取し、栽培し、交易し、産業を興し、階級を生み出し、国家を創建します。

それは人問が動物的な意味で生きてゆくためにはもとより不要のものです。

人間がそのような「もの」を作り出すのは、「作られたもの」が人間に向かって、自分が「何ものであるか」を教えてくれるからです。

人間は「彼によって創造された世界の中で自己自身を直観する」のです。(経済学・哲学草稿)

人間は生産=労働を通じて、何かを作り出します。

そうして制作された物を媒介にして、いいわば事後的に、人間は自分が何ものであるかを知ることになります。

ちょうど透明人間の輪郭は彼が通過して割れたガラス窓の割れ具合からしか知られないように。

この「作り出す」活動は一般に「労働」と呼ばれます。

マルクスはこの労働を通じての自己規定という定式をヘーゲルから受け継ぎました。

ヘーゲルによれば、「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけ」です。

人間が「自然的存在者以上のもの」であるのは、ただ「人為的対象を作り出した後」だけです。

動物は自然的存在者である状態に自足して生きています。ですから「おのれが何ものであるか」「おのれの生きる意味は何か」というような問いを立てることがありません。

(実際に動物に訊ねたことがないので、断言はできませんが。たぶんそうだと思います。)

たしかに、動物も人間と同じように存在の欠如を感じることがあるでしょう(空腹とか生殖の欲望とか)。

しかし、その欲望の対象は自然的、生物的、物質的なものに限定されており、欲望の充足とともに、動物は「所与としての自己」への深い自足のうちにふたたび戻ります。

動物は、「所与としての自己」、あるがままのおのれと、「あるべきおのれ」とのあいだの乖離感に苦しむということがありません。(だぶん。)

「動物は自己について語ること、「我は・・・」と言うことができない」とへーゲルは考えます。

あるがままの自己を「超越」して、「自己を自己自身以上に高め」る、というような野心的なアイディアはおそらく動物の頭脳には浮かびません。

(「空の飛び方」を習得した猫とか、飛翔法の改善を企てるカモメとかを描いた「お話」はありますが、もちろんこういうのは作家の作り出した「寓話」に過ぎません。)

動物は自己意識を持ちません。

ヘーゲルの言う「自己意識」とは、要するに、いったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということです。

自分自身のフレームワークから逃れ出て、想像的にしつらえた俯瞰的な視座から、地上の自分や自分の周辺の事態を一望することです。

人間は「他者の視線」になって「自己」を振り返ることができますが、動物は「私の視線」から出ることができないので、ついに「自己」を対象的に直観することができないのです。

想像的に鳥になってみれば分かるはずですが、地表から高く飛び上がれば飛び上がるほど、地上にいる「私」についての情報は増えます。

「私」が空間的な布置のどこに位置を占めていて、どのような機能を果たしているのか、何を生み出し、何を破壊し、何を育み、何を損なっているのか・・・。

想像的に確保された「私」からの距離、それが自己認識の正確さを保証します。

「人間は彼によって創造された世界の中で自己自身を直観する」というマルクスのことばはそのように解釈するべきでしょう。

ヘーゲルもマルクスも、この自己自身からの乖離=鳥瞰的視座へのテイク・オフは、単なる観想(一人でアームチェアに座って沈思黙考すること)ではなく、生産=労働に身を投じることによって、他者とのかかわりの中に身を投じることによってのみ達成されると考えました。

つまり「労働するものだけが、「私は」ということばを口にすることができる」ということになります。

生産=労働による社会関係に踏み込むに先んじて、あらかじめ本質や特性を決定づけられた「私」は存在しません。

存在するのかも知れませんが、定義上、そのような「私」は決して私自身によって直観されることがありません。

というのも、「私を直観する」ことは、他人たちの中に投げ入れられた「私」を風景として眺めることによってしか成就しないからです。

(それは、子どものいない人に内在する「親の愛」や、弟子を持たない先生に内在する「師としての威徳」とかと同じものです。潜在的にはあるのかも知れませんが、現実の人間関係の中に置かれないかぎり、それが「ほんとうにあるのかどうか」を検証する手だではありません。)

私たちは自分が「ほんとうのところ、何ものであるのか」を、自分が作り出したものを見て、事後的に教えられます。

私が「何ものであるのか」は、生産=労働のネットワークのどの地点にいて、何を作り出し、どのような能力を発揮しており、どのような資源を使用しているのかによって決定されます。

自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。

ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。

主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。

これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。

それは見たとおり、ヘーゲルとマルクスから二〇世紀の思考が継承したものなのです。

ネットワークの中心に主権的・自己決定的な主体がいて、それがおのれの意思に基づいて全体を統御しているのではなく、ネットワークの「効果」として、さまざまのリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」は決定される、というこの考え方は、「脱−中枢化」あるいは「非−中枢化」とも呼ばれます。

中枢に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という「天動説」的な人間観から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの「絡み合い」として主体は規定されるという「地動説」的な人間観への移行、それが二〇世紀の思想の根本的な趨勢である、と言ってよいだろうと思います。

4 フロイトが見つけた「無意識の部屋」

マルクスと並んで構造主義の源流にはもう一人のユダヤ人学者の名前を挙げなければなりません。

ジグムント・フロイト(1856〜1939)です。

マルクスは人間の患者を規定するものとして、人間を巻き込む生産=労働の関係に着目しましたが、フロイトは逆に、人間のいちばん内側にある領域に着目します。

人間が直接知ることのできない心的活動が人間の考えや行動を支配している、フロイトはそんなふうに考えました。

この「当人には直接知られず、にもかかわらずその人の判断や行動を支配しているもの」、それが「無意識」です。

フロイトは彼自身の臨床例に基づいて、単純な言い間違い、書き間違い、物忘れといった日常的な失錯行為から始めて、強迫神経症やヒステリーに至るまで、すべての心的な症状は、その背後に「患者本人が意識することを忌避している、無意識的な過程」が潜在している、という仮説を立てました。

フロイトの貢献はマルクスと深いところで通じています。

それは「人間は自分自身の精神生活の主人ではない」ということです。

フロイトは心理学の目的を「自我はわが家の主人であるどころか、自分の心情生活の中で無意識に生起していることについては、わずかばかりの報告をたよりにしているに過ぎないのだ、ということを実証」することである、と書いています。(精神分析入門)

マルクスは人間は自由に思考しているつもりで、実は階級的に思考している、ということを看破しました。

フロイトは人間は自由に思考しているつもりで、実は自分が「どういうふうに」思考しているかを知らないで思考しているということを看破しました。

自分がどういうふうに思考しているのか思考の主体は知らない、という事実をもっとも鮮やかに示すのがフロイトの分析した「抑圧」のメカニズムです。

ある心的過程を意識することが苦痛なので、それについて考えないようにすること、単純に言えば、それが抑圧です。フロイトはこのメカニズムを「二つの部屋」とそのあいだの敷居にいる「番人」という卓抜な比喩で語りました。

(中略)

マルクスは人間主体は、自分が何ものであるのかを、生産=労働関係のネットワークの中での「ふるまい」を通じて、事後的に知ることしかできないという知見を語りました。

フロイトは、人間主体は「自分は何かを意識化したがっていない」という事実を意識化することができないという知見を語りました。

どうも、時代が下るにつれて、人間的自由や主権性の範囲はどんどんと狭くなってゆくようです。

この流れを決定づけたもう一人の思想家をここで忘れずに紹介しておきましょう。

5 ニーチェは「臆断の虜囚」を罵倒する

マルクス、フロイトの同時代にはもう一人、人間の思考が自由ではないこと、人間はほとんどの場合、ある外在的な規範の「奴隷」に過ぎないことを、激烈な口調で叫び続けた思想家がおりました。

フリードリヒ・ニーチェ(1844〜1900)がその人です。

私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の「偏見」に他ならないということをニーチェほど激しく批判した人はおそらく空前絶後でしょう。

ニーチェの基本的な立場は次のことばに集約されています。

「われわれはいつもわれわれ自身にとって必然的に赤の他人なのだ。われわれはわれわれ自身を理解しない。

われわれはわれわれ自身を取り違えざるを得ない。

われわれに対しては「各人は各自に最も遠い者である」という格言が永遠に当てはまる。

われわれに対して、われわれは決して「認識者」ではないのだ。」(道徳の系譜)

ニーチェは、私たちは目分が何ものであるかを知らない、と言い切ります。

それはヘーゲルのことばを使って言えば、「自己意識」を持つことができない存在だ、ということになります。

(つまり動物と同レベルだ、ということです。)

(中略)

ニーチェの思想的事績をおおいそぎで要約してみましたが、「負の遺産」である「超人思想」を含めて、私たちの時代がニーチェから受け継いたものは少なくありません。

何よりもまず、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持できない、過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力とのびやかな知性が必要とされる、という考え方です。

私はこの点については、ニーチェに全面的に賛成です。

この考え方はのちに「系譜学的」思考と名づけられることになり、ミシェル・フーコーによって受け継がれ、フーコーを経由して、学術的方法として定着することになりました。

フーコーは、ついでにニーチェからその「大衆嫌い」の傾向もちゃんと継承しました。

そのおかげで、現代大衆社会では「大衆なんて大嫌いだ」と大衆たちが口を揃えて言い立てるという、「ポスト大衆社会」的な光景が展開することになりました。

(これはちょっとうんざりですね。)

私たちの時代はニーチェからは困った遺産も受け継いだわけですが、それでも、人間知性の少なくとも一部分は、ある種の「嫌悪感」を推力として運動するものであることは間違いありませんし、そうである以上、このような「嫌悪する思想」から私たちが引き出しうる知的資産は決して少なくないと思います。

(後略)

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第二章 ソシュール
第三章 フーコー
第四章 バルト
第五章 レヴィ=ストロース
第六章 ラカン

に続いていきます。


寝ながら学べる構造主義 FUSEが心から推薦する一冊です。
是非読んでみてください。

「寝ながら学べる構造主義」
文春新書
定価 690円


 
 
依光感想
 
就職活動で、自分探しということが言われます。

しかしこの本に書かれていることを読めば、あらかじめ本質や特性を決定づけられた「本当の自分」というのはありえないということになります。

常々「自分探し」よりも、インターンなど行動をと思っていたので、興味深く読みました。

また「なぜ働かなければならないのか?」

この問いに対して、自己実現のためという言い方をすることがあります。

このことはヘーゲルの「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけ」という解釈に通じるといえるかもしれません。

「自分がそうありたいと願うものになること」を当然とし、それに対して「命がけの跳躍」をする「へーゲルの人間観」が、ヨーロッパ思想に一貫して伏流していると内田さんは書かれています。

「アイデンティティ」というのは、この「自分がそうありたいと願うものになること」という概念であり、我々日本の若者も突きつけられているテーマであるかもしれません。

この本を読んでもう一度じっくり考えてみることは有益だと思います。

一方で、日本の文化は、個性を消して、無為自然の境地に達することをよしとする文化に思えます。 ですから、この「何かやらねばならない」という主張は、絶対的なものではないことを認識しています。このことから最近(02年10月)まで、この主張をためらっていました。

しかし、人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」ではなく、「何ごとをなすか」によって決定されるという考え方に出会い、「何かやらねばならない」ということは自分のためであるという主張としてありではないかと思いはじめました。

どのようにお考えになるでしょうか?

坂本龍馬(1835〜1867)も同じようなことを言っていて興味を持ちました。

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