Last Update:00/11/05
 
 

17土佐の場合(気質)

「この国のかたち」文春文庫より


「土佐の美質」

薩と長についてふれた以上、明治維新をつくったもう一つの存在である土についてのべねばならない。薩長土という三藩それぞれの政治的・人間的個性の三様ぶりがなければ、明治維新はああいう形ではおこらなかったにちがいない。以下は、江戸期日本の多様さという、日本史のとらえ方にもかかわりがある。

土佐藩(高知県)は、魅力的である。すくなくとも他の二藩とはきわだって異なる藩風をもっていた。たとえば内面に緊張(藩士の階層間の反目問題)をかかえていたこと、それに下士階級に天性ともいうべき自由児が多かったことである。さらには、言語表現の能力高く、文章家がすくなくなかった(ところが、いまは高知県の偏差値全国最下位だそうである。江戸期の土佐藩は多様な人材を擁することで一目おかれたが、いまはただ一種類のモノサシのもとで、この県の若者たちは閉塞している。江戸期と現代という二つの文明を考える上での材料として考えていいのではないか)。


「テキ・トウ・不・羈(キ)」

「テキ・トウ・不・羈(キ)」という漢語は、まことに異様な字面が四個もならんでいてなじみにくい。しかし江戸期の知識人のあいだでは、ごくふつうのことばだった。ある種の独創家独志の人、あるいは独立性のつよい奇骨といった人格をさす。「テキ」は"すぐれていて、拘束されないさま"で、「トウ」は"志が大きくてぬきんでている"こと、「羈(キ)」は"馬を制御するたづな。「不羈(フキ)」は"拘束されない"ということ。漢語としては紀元前から存在した(もっとも、漢字にはときに同語反対義(アンビバレンス)があって、「テキ」はスグレルという意味と、正反対のオロカという意味とがある。「テキ・トウ・不・羈(キ)」の場合、世渡りからみれぱおろかともいえる)。

早稲田大学をおこした大隈重信が、自分の出身藩である肥前佐賀藩(薩長土肥の肥)のガリ勉主義の藩風を『大隈侯(伯)昔日譚」のなかでののしっている。「一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに「テキトウ不羈」の気象を亡失せしめたり」大隈がそのようになげいたように、肥は、全藩の子弟を組織して一種類の学制の中につめこみ、定期的に試験を施して、落第すれば先祖代々の家禄まで削るという、恐怖をもって一藩をかりたてた。しかも思想は朱子学というドグマで統一されていた。このおかげで多くの秀才を出すことになったが、「テキトウ不羈」の気象を亡失させた、と大隈はなげくのである。かれが後年、早稲田の地に一私学をおこした動機は、この批判のなかにもある。

この点、土は「テキトウ不羈」の一手販売のような土地だった。元来、土佐人には風土的精神として拘束を好まないところがあった(むろん、すべての土佐人がそうであったというのではない)。中江兆民(1880〜1941)の例をあげてみる。兆民はいうまでもなくルソー思想の明治日本への移植者である。その少年期の一時期、三度の食事のつど、食べおわると茶碗を割るべく遠くへ投げ、微塵(みじん)にくだける音に快感を感じた、という(この奇癖は、高知県出身の作家田中貢太郎(1880〜1941)の日常にも見られたらしい。精神医学的に、一つの風土を感じさせる)。

中江家は、まずしかった。家は足軽で、しかも父が早世し、母親の手でそだてられた。家計は、母親の内職でささえられていたから兆民のこの奇癖による出費は、家計を圧迫したにちがいない。しかし彼女は一人息子の悪習を矯正するよりも、食器を漆器にかえることでふせいだ。元来、風土として、奇癖奇行には寛容だったのである。さらに、兆民の生涯をみると、強烈なほどに自律的ではあったが、他から拘束されることを病的なほど好まなかった。ただし、頑質とはいえない。「頑質」という用語も、江戸期、人格批評として、よく用いられた。頑固者などといえば一種の美質のようにきこえるが、たとえば長の吉田松陰などは、門人を教える場合、これをマイナスの評価として用い、固定概念にとらわれて物や事が見えないおろかさという意味につかった。兆民の場合、世間や人間を見る場合、ことさらに自分の思想の小窓からのぞくことをせず、自分の思想にあわない人物も、そこに魅力を感ずればたかだかと評価した。かれは「民約論」の訳者ながら明治天皇を敬慕し、西郷隆盛を敬愛し、また官権思想の俊才である井上毅も好きであった。つまり「テキトウ不羈」でありながら、頑質ではなかった。


坂本竜馬の発想の原点

兆民が尊敬し、その生前を知っていた十四歳上の土佐人坂本竜馬も、この気質群の中の人だった。竜馬は、一家の末っ子だった。早く母親をうしなったため、三つ年上の姉の乙女に、十九で江戸へ出るまでのあいだ、いわばはぐくまれた。毎朝、この姉に髪を結ってもらう。髪をすき、まげをきりっと束ねて元結をつよくむすんでもらったあと、せっかく出来あがったまげをぐさぐさにゆるめるのである。竜馬の写真は長崎で写したのがよく知られているが、この写真でも、結髪の体をなさないまでに崩れている。癖という以上に、性分だったらしい。竜馬における不羈独立の性格が、その生涯でもっともよくあらわれたのは、長崎における浪人結社「海援隊」の着想と結成だった。その"約規"に、脱藩浪士をもって入隊の資格とする、とある。この浪人結社は、海運会社であり、商品相場の会社であり、開拓会社であり、また機に応じて海軍にもなりうる組織だった。さらには薩長土および越前福井藩から、船舶の現物や金品による出資を仰いでいたから、一種の株式会社でもあった。べつな表現でいえば−これが重要だが−私設の"藩"を既存の諸藩の援助によってつくったともいえる。

さらには、視点である。長崎を本拠としたことが、かれの観察眼を変えた。かれののぞみは、海外貿易にあった。そのためには、統一国家の樹立が必要だった。かれにとって革命は、渾身(こんしん)のしごとではなかった。それにかれは長崎という幕末政争の圏外にいたため、遠見の火事のように京都の情勢がよく見えた。好機ごとに京都にあらわれては、薩長の手をにぎらせたり、大政奉還の奇手を演出したりしたのは、右の諸条件をかれの本質が活性化させたことによる。ふと思うことだが、一介の浪人の力で薩長という二大雄藩の握手が可能なはずがない。発言の立脚点として、海援隊の勢力があったといっていい。さらにかれは役人にはならないということをつねづね語っていた。大政奉還という奇手が可能だったのも、かれが新政府に官職をもとめるということをせず、いわば無私になることができたからだ。無私の発言ほど力のあるものはない。まことに、「テキトウ不羈」というほかない。


南海道

話がかわるが、土佐人には"南海道"というものの気質が濃密だったのであろう。"南海道"は七世紀末、文武天皇のときに六道の一つとして制定された地域で、紀州(和歌山県)と淡路と四国をさす。土俗として平等意識がつよく、そのため過剰な敬語が発達しなかった(紀州方言にいたっては敬語がない)などの共通点がみられるが、後世、その気風が、磨耗せずに濃密にのこったのが、土佐だったとしえる土佐に沈澱した理由は、いくつか考えられる。決定的なことは、他の五カ国が戦国期に一国を統一する地生えの領国大名をもたなかったのに対し、土佐だけは長曾我部氏をもった。このことによって一種の民族的結束ができた。その結果、地域についての誇りがつよくなり、ひいては固有の南海道気質が保存された。他の五カ国は江戸封建制によって上下関係の訓練がゆきとどき、いわば"お行儀"によって江戸期ふうに馴致(じゅんち)されたが、土佐にまでは"お行儀のよさ"がやって来なかった。戦国の長曾我部時代の後半は、兵制が国民皆兵にちかかった。これによって土佐人のほとんどの家にわが家は戦国の"一領具足"だったという家系伝説ができた。このことが、固有の気質群をゼラチンのようにかためた。

土佐の自由思想

長曾我部氏が関ケ原の敗者としてつぶされ、かわって江戸期、遠州掛川の小大名山内氏が入ってきて、土佐人を抑圧したことも、その気質群を結束させることになった。山内氏はやがて領民への慰撫策のために郷士制をしき、農民の代表格の者を郷士という軽格武士にとりたてて、藩に組み入れた。他藩の場合、名主・庄屋は富農階級からえらんだが、土佐藩では庄屋は小吏だった。それも郷士のなかからそれをえらんだりもした。ただ、庄屋郷士は藩の思惑とはちがい、小吏である庄屋は、おなじ長曾我部の"遺臣"という連帯意識もあって、領民の側についた。竜馬と一緒に死ぬことになる中岡慎太郎も、若くして庄屋職についていた。この意味で、土佐藩は"進駐軍"だった山内侍と地生え侍の二元制だったといえる。

地生え侍は、支配階級である山内侍から屈辱的な土下座の礼をしいられつづけ、幕末以前から、拘束のない世を夢見るようになった。天保年間ごろから土佐の庄屋たちは、天皇という超越的な一点を仮想する(天保庄屋同盟)ようになった。その一点を仮設しさえすれば、上下構造という解きがたい数式が一挙に解決できる。目の前の上士どころか、藩主も将軍もただの庶民になり、平等になってしまうのである(さきの兆民の天皇崇拝と考えあわせられたい)。山内家は、藩としては佐幕だったが、郷士階級は、ほとんど右の夢想を共有した。共有者は、横目という下級警吏から関所の番人にまでおよんだ。

以上、土佐のことをのべたというより、薩長土肥という四藩がいかに別国のように性格がちがっていたかということのハナシである。こんにちの日本はいい国だと思うのだが、発想の多様さについては、心もとない。そういう場合、江戸期の多様さを思うと、心づよくなる。この多様さは、ある時期のヨーロッパの諸国間のちがいをさえ、ふと思いあわせたくなってしまリのである。


この国のかたちFUSEが心から推薦する一冊です。
是非読んでみてください。

資料として

「この国のかたち」17土佐の場合
司馬 遼太郎 著
文春文庫
定価 (419+税)円

 
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