Last Update:02/05/23
 
 

「無想剣」

「竜馬がゆく」1巻 淫蕩 より


「いい機会だ。兵法噺をしてやろう。これは竜馬のいまの一件とあまり縁がなさそうなことだが、あの井戸端での天衣無縫な竜馬をみているうちに、むかし、兄上(千葉周作)からきいたはなしを思いだした。
−どこの国の山奥であったか忘れたが、キコリがいたと思え」
 
深山で、あるキコリが斧をふるって大木を伐っていたとき、いつのまに来たのか、サトリという異獣が背後でそれを見ている。
 
「何者ぞ」
ときくと
「サトリというけものに候」
という。
 
あまりの珍しさにキコリはふと生捕ってやろうと思ったとき、サトリは赤い口をあけて笑い、
「そのほう、いまわしを生捕ろうと思ったであろう」
と言いあてた。
 
キコリはおどろき、このけもの容易に生捕れぬ、斧でうち殺してやろうと心中たくらむと、すかさずサトリは、
「そのほう、斧でわしをうち殺そうと思うたであろう」
といった。
 
キコリは、ばかばかしくなり、
(思うことをこうも言いあてられては論もない。相手にならずに木を伐っていよう)
と斧をとりなおすと、
「そのほう、いま、もはや致し方なし、木を伐っていようと思うたであろう」
とあざわらったが、キコリはもはや相手にならずどんどん木を伐っていた。
 
そのうち、はずみで斧の頭が柄から抜け、斧は無心に飛んで、異獣の頭にあたった。頭は無残にくだけ、異獣は二言と発せずに死んだという。
 
剣術でいう無想剣の極意はそこにある。
この寓話は、おそらく創作上手の禅僧がつくった話だろうが、神田お玉ヶ池の千葉周作はこの話がすぎて、門弟に目録や皆伝をあたえるときは、かならず、
「剣には、心妙剣と無想剣とがある」といった。
 
周作はいう。
「心妙剣とはなにか」
別名を実妙剣といい、自分が相手に加えようとする狙いがことごとくはずれぬ達人のことで、剣もここまでゆけば巧者というべきである。しかしこの剣も、サトリの異獣のようにそれ以上の使い手が来れば敗れてしまう。
 
無想剣とは、「斧の頭」なのだ。斧の頭には、心がない。ただひたすらに無念無想でうごく。
 
異獣サトリは心妙剣というべきであり、無想剣は斧の頭なのだ。剣の最高の境地であり、ここまで達すれば百戦百勝が可能である、と千葉周作はいうのである。

竜馬がゆく FUSEが心から推薦する一冊です。
是非読んでみてください。

「竜馬がゆく」
文春文庫
定価 552円


 
 
依光感想
 
千葉周作のこの話は、個人的にとても好きな話です。
 
人はどうしても他人(身近な人?)と比べて、自分のポジションを確かめます。
 
人よりも勝っているか、劣っているか。
人よりもお金を持っているか、持っていないか。
 
人よりも少しでも勝っていたいと、あらゆる手段でがんばります。
 
でも、少し待ってください。
これって周作のいう、「心妙剣」を目指しているのではないでしょうか?
周作の言うように、自分以上の人が現れれば負けてしまいます。
 
FUSEとしては「無想剣」を目指したいと思っています。
他人を意識しない「無念無想の境地」を目指します。
自分で目標を立て、自分なりの目標に向かって努力することです。
 
人は人。自分は自分。
人に勝ろうと努力するのではなく、自分に勝ろうと努力する。
いかがでしょうか?
 
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