Last Update:02/11/24
 
 

「見えない、おしゃれなフリーターの秘密。」

街場の現代思想3 内田樹 著 Meeets 2002年4月号より


一向に景気がよくならないし失業率が最悪だ。そんななか、「なんだか働く気がしないし、てきとーにバイトで楽しくやって」スタンスは今、社会史的にどういう意味を持っているのだろう。
「仕事がないのは自分の無能と努力不足のせいだ」と思う「おとな」を創出しないこと。つまりフリーター量産の国策について。


「先生、完全失業率が5・5%を超えました。失業問題に解決の糸口はあるのでしようか?」
 
相変わらずに学生さんの質問は不意打ちである。私はむろん間髪を容れずに答える。
 
ある。
 
失業率を下げるには方法が二つある。
 
一つは誰にでも分かるね。
 
「・・・雇用の創出?」
 
ご名答。では、もう一つは。
 
「・・・・・?」
 
分かるまい。では、先生がお答えしよう。
 
市場におけるあらゆる経済活動がそうであるように、問題は雇用をめぐる需給関係である。働き口が増えれば、そこに失業者は吸収されて、失業率は下がる。
 
これは分かるね。
 
「当たり前でしょう」
 
だったら、その逆をなぜ考えないのかね。
 
「逆ですか?」
 
しかり。求人が増えないのなら、求職者を減らせばよいではないか。簡単な算術だ。
 

 
問題はその根底からとらえなければならない。そう私たちに教えて<れたのはかのカール・マルクスである。私たちもマルクスのひそみに倣おうではないか。
 
失集者とは誰のことか。
 
失業者とは単に定職がない人間を指すのではない。
 
仕事がなく、かつ仕事を求めている人間が失業者なのである。
 
定職がないけれど職に就くことを求めていない人間は、そもそも失業率算定の分母に算入されない。明智小五郎とかオーギュスト・デュパンとかイワン・カラマーゾフとかはまるで仕事をしていないが、そもそも働く気がないんだから、失業者とは言われない。
 
近代ヨーロッパにはこの種の「遊民」、すなわち膨大な数の「ランティエ」(金利生活者)たちが存在した。
 
なぜ、彼らが遊んでいられたかというと、ヨーロッバではデカルトの時代から第一次世界大戦まで(日本史で言えば、関ヶ原の合戦から大正はじめまで)ほとんど貨幣価値が変わらなかったからである。つまり、先祖の誰かが小銭を貯めて、それで買い込んだ公債の利子で何代にもわたって子孫が徒食できたのである。家だって石造りだから祖先が作った家で、備え付けの家具什器を使っている限り、住居はただである。
 
1914年の戦争で貨幣価値が下落するとともにこの階層は消滅した。そして彼らとともにヨーロッパにおけるすべて の「高踏的なもの」、要するに「美しいが無意味なもの」を生産し消費する社会集団も消えたのである。
 

 
閑話休題。失業の話だった。
 
とりあえず、「職はないけど、職に就く気がない人間」は失業者ではない、ということはご理解いただけただろう。
 
しかし、それだけではない。
 
社会的身分としては失業者なのだが、必ずしも「失業問題」の原因とはならない集団は他にも存在する。
 
自分に職がないのは自分が無能であるか、または努力が足りないか(またはその両方)のせいだと思って「反省」している人たちがそうである。彼らは「失業者」ではあるが「失業問題」という社会問題の主人公にはならない。
 
気の毒だが、公的支援はこのような集団には決して優先的に向かうことがない。
 
なぜなら、私たちの生きている資本制社会は、失業問題を「人道的」な問題としてではなく、純然たる「政治技術」の問題として、つまりこの問題を放置しておく場合と、解決する場合と、どちらが「よりコストがかかるか」という非人情な算術に基づいて考察するからである。
 
失業という身分を自己責任において受け容れている人は「無料住宅を提供せよ」とか「無料で職業訓練をせよ」などという要求をしない。彼らは、公的支援を頼らず、自力で窮状を脱出する方法を考える。失業は彼らにとってあくまで「個人的な問題」であって、誰か他の人が尻拭いをすべき「社会問題」としてはとらえられていないからだ。
 
彼らは「社会的コストのかからない失業者」である。だから、政府はそういう人たちのためには何もしない。理不尽だと思うだろうが、そういうものなのである。
 
失業者総数から「仕事をする気がない人々」と「仕事がないのは自分の責任だと思っている人々」を控除すると、残るのは、職がなく、職を求めており、かつ職がないのは自分以外の誰かの責任であると思っていて「責任者出てこい」と怒っている人々である。この「自分の失業を自分以外の誰かの責任だと思って怒っている人々」が構成員の一定数を超えると社会は危機的な様相を呈する。そのような人々をなが<放置しておくと、社会秩序がほころびてくる。いったん崩れた社会秩序の回復には莫大な社会的コストが必要となる。ここではじめて失業問題は個人のレベルを離れて政治問題の水準にせり上がってくるのである。
 
もうお分かりになっただろう。
 
失業問題の包括的解決のためには、「雇用の創出」と同時に「仕事をする気がない人たち」と「仕事がないのは自分の責任だと思う人間」を組織的かつ積極的に作りだして行くことが必要なのである。
 
そうは言っても「わが身にふりかかる不幸をすべて自己責任で引き受ける人間」を短期的に育成することははなはだ困難である。だって、それって要するに「おとな」を作り出すということだからね。
 
いまの日本社会には、「おとな」を組織的に作り出すような制度的基盤はない。これは断言してもよい。
 
となると、消去法により残る方策は一つしかない。
 
そう。「仕事をする気がない人間」を大量生産することである。
 
これは「おとな」を育て上げるほどむずかしい仕事ではない。そして、まさに日本社会が暗黙のうちに選択したのはこの道だったのである。
 
通常、人間を仕事に駆り立てる動機づけは、「資産・威信・権力」に対する欲望である。「仕事をする気を失わせる」ためには、この動機づけの足元を掘り崩してしまえばよい。
 
「金、金、っていうけどさ。金でいったい何が買えるというんだよ、ヤマダ。金で愛が買えるか?金が疲れたお前を抱きしめてくれるか?」
 
たしかにそう言われればその通りである。
 
そう思ってあらためてテレビ・ドラマやベストセラーを見ると、おやまあ、まるで口裏を合わせたように「金で幸福は買えない」というテーマを全員が大合唱しているではないか(お金持ちでかつ幸福そうな人たちまでもが)。
 
威信と権力に対してもどうもあまり敬意は払われているようには思われない。
 
ドラマに出てくる銀行の頭取とか高級官僚とか国会議員とかはおおむね悪役であり、相変わらず銀座や新地のバーなどで「ふふふ、越後屋、お主も悪じゃのう」などという大時代な台詞をしゃべっている。
 
立花隆のベストセラー「東大生はバカになったか」を読むと、東大は文部省と共犯的に組織的にバカを生産してきたらしい。その教育の甲斐あって、「独立心の欠如、暗記中心主義、創造性の欠如、みんなで渡ればこわくない。長いものにはまかれろ。役人の法律前例万能主義などなど」のメンタリティに現代目本の支配階級は骨の髄まで毒されている。いうなれば、こんな時代に社会的威信や政治権力を持っているということ自体、バカで不道徳な人間である証拠なのである。
 


 
なるほど。
 
実に爽快な現状分析である。
 
だが、少し頭をクールダウンさせて考えてみよう。
 
金にも威信にも権力にも学識にも名声にも人間の一生の努力を傾注するほどの価値はない、ということがかつてこれほどまでに声高に語られた時代があっただろうか?
 
金で買えないもの、威信の及ばぬもの、権力が損なってしまうもの−愛、自由、健康、静かな時間、おもいやり、想像力、エコシステム−そういったものの蔵する「真の」価値の「見直し」がこれほど熱烈に語られた時代が日本近代史上かつてあっただろうか?
 
ない。ありません。
 
これは断言してよい。
 
それらすべてがピンポイントしているところはただ一つである。
 
「高い賃金・高い威信・強い権力」をめざして努力する気を根底から失わせることである。つまり、「仕事をしたい」という気持を萎えさせることを、現代文化は一大キャンペーンを張って喧伝しているのである。
 
キャンペーンはみごとな効果をあげた。
 
「責任持たされるのいやだから、正社員にはなりたくないです。ときどきてきとーにバイトとかして、とりあえず生活できて、好きな音楽とか聴いて、好きなビデオとか見ながら彼女とラーメンとか畷ってれば、けっこうハッピーだし。「自分らしさ」へのこたわり?っていうんですか?」
 
社会福祉的見地からすると涙が出るほどありがたいこの人々は「フリーター」と呼ばれて、現在150万人存在する。 これが1000万人程度まで増加すればわが国の失業問題は完全に解決されるであろう。
 


 
「自分が失業者なのに失業者であることに気づいていないで、それがおしゃれな生き方だと信じ込んでいる社会集団」を組織的に産出することがわが国が選んだ失業問題解決の秘策だったのである。
 
当然ながら、そのことは当のフリーター諸君には「秘密」である。しかし、こうして(フリーターの皆さんにも愛読者が多いと思われる)「ミーツ」を通じて内情を私がばらしてしまったので、政府主導の「全国民フリーター化大作戦」が「やっぱ、正社員にしてー。社会保険もつけてくださいー」と泣訴する諸君によって今後頓挫する可能性はある。だが、それでもなお心配には及ばない。というのは、わが国には「ほんとうは失業者なのに自分が失業者であることに気づいていない」二大社会集団がまだ残っているからである。
 
「家事をしない専業主婦」「勉強をしない大学生」がそれである。彼らある限り、豊芦原瑞穂の国の未来は明るい。
 


 
著者紹介
うちだ・たつる
神戸女学院大教授。01年春よりブレイクした「ためらいの倫理学」に続く昨年末刊の「レヴィナスと愛の現象学」(せりか書房)は「知る」ことではなく「知るためへの道すじ」に重心を置いたあらゆる意味での必読の書。大学の専門は「フランス現代思想」「精神分析を使った映像記号論」「記号論を使った身体技法論」と、まさにイケてる教授だが、話題のHP「内田樹の研究室」http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/を覗げば、ミーツ世代に「自立するとは何か」などを新しい語り□で展開する(説教を垂れる)「バーチャルおじい」という正体が判明する。1950年生まれ。

Meets
Meeets 2002年4月号より」
京阪神エルマガジン社
定価 390円


 
 
人生のテーマページでご紹介する理由
 
失業率は経済学の最も重要なテーマであり、政治問題、社会問題としても重要です。
 
内田さんは、若者の気持ちが、働くことに向かっていないことを、テレビドラマなどを例にして、指摘しています。
 
日本の製造業や農業の高齢化。
 
こういったものの根本に、仕事にかっこよさや自由を求める若者の意識があるのは間違いないことだと思います。  
 
 
依光感想
 
失業問題というと、ホームレスの人々をすぐにイメージするのではないでしょうか?全く別世界のイメージです。しかし内田さんに「フリーターも、失業者なんじゃない?」と問いかけられ、うーんとうなってしまいました。
 
就職活動のお手伝いをするようになって感じるのは、「なぜ働くのか?」ということに対して、誰もが明確な答えを出せないということです。現在定職についている人も含めて。
 
もし自信を持って働いている人が多いのなら、学生が理想とする社会人はもっともっと沢山いるはずですから。
 
内田さんが文章の中で書いてある、「金、金、っていうけどさ。金でいったい何が買えるというんだよ、ヤマダ。金で愛が買えるか?金が疲れたお前を抱きしめてくれるか?」などという部分は、自分たちの世代は、実際に、いやというほど聞かされています。
 
 
自分たちの世代は、「会社人間」「会社の歯車として働く」ということを嫌悪し、自由な時間と自分のやりたい仕事だけをやりたいという意識が、今までのどの世代よりも強いのかもしれません。
 
この自由な時間を持てて、やりたい仕事をやるという生き方は自分は否定しません。
 
 
しかし、不安があります。
 
その自由な時間を持てて、やりたい仕事をやるという生き方を実現できているのでしょうか?
 
やりたいことっていうのは、本当にやりたいことなのでしょうか?
 
面子で今の状況を選んでいるのではないでしょうか?
 
そこに疑問を持っているのです。
 
 
自信を持って誰に対しても胸をはれる若者は少ないと思うのです。
 
フリーターをなんとなく選んでしまう学生。なんとなく大学院に行ってしまう学生・・・。
 
 
就職活動のお手伝いをする中でいつも言っているのは、「自分の頭で考えて、決意!」ということです。
 
自分で人生の選択をして、成功も失敗も自分で受けとめる。
 
自分で決断して失敗したことは、肥やしになり自分のためになると考えています。
 
一番愚かなのは、人に言われるままに従い、失敗し、その人のせいにし、時間を浪費することです。
 
 
FUSEとして、就職活動をする大学生には、就職試験を受ける仕事が、
 
「自分の心から出た結論なのか」
 
それとも
 
「テレビや他人からの情報によって自分がやりたいと思ってしまったものではないのか」を
 
明確に見極めてもらえるようなお手伝いができればと思っています。
 
そして「自分の頭で考えて、決意!」できるように。
 
 
かといって自分自身も仕事ということに対する答えは見つかっていません・・・。
みんなといっしょに考えていきたいとも思っています。非常に難しいですね。
 
 
この文章を初めて拝見したときに、あまりの切れ味と視点の面白さにものすごく衝撃を受けました。それ以来内田さんのHPを見たり著書を揃えたりと(高砂の講演会にも行ってきました)02年一番の出会いかもしれません。HPや本を是非手にとって見てください。
 
 
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